大阪唐木指物とは

大阪唐木指物の概要  唐木材の解説  大阪唐木指物の技法

大阪唐木指物の概要


大阪とは
大阪で唐木指物が多く作られていたので産地名として大阪の名がつきました。



唐木とは
紫檀、黒檀、花梨、鉄刀木(たがやさん)の総称です。
かつては、これ等の原木も中国で採れると思われていた為、唐木と名づけられましたが、実際には、東南アジアの熱帯及び亜熱帯地方が原産地です。
現在国内で生産されている、唐木製品の多くが関西で作られ大阪の唐木指物として、親しまれています。
唐木製品は、大きく分けると、選木→製材→乾燥→木取り→細工→組み立て→磨き→漆塗→仕上げ→完成とこのような工程をたどって、作っています。



唐木の由来と大阪唐木指物の歴史
延宝7年(1679年)に出された冊子「難波すずめ」の文献によると、次のように紹介されている。
日本において、唐木製品の歴史は古く、概要は奈良朝時代630〜839年の間に延べ15回の遣唐使によって持ち帰られた、日本にはない珍らしい木(素材)を使った製品等があり、この木をトウの木、カラ木と呼んだのが始まりであるという。

その頃は海上交通も困難なため、輸入される唐木の量も少なく、それを素材に加工する職人も主として渡人等の内最高級の工人の少数が寺院とか邸宅などの一部に装飾用として用いた程度であったという。
しかし大陸との交通の度合いが増加し、材料も比例して多くなっていた。安土桃山時代に入ると茶華道の勃興に平行して唐木の使われる量が増え、当時の建築様式による書院造りの付け二段違い棚および机では不便になり、持ち運び可能な什器の必要性が生じた。
このため、大工職から指物職が発生しはじめ、その後、指物の種類が増えるに従って専門的な指物師が現れ、職業として確立したのは1680年代の元禄時代以降とみられている。

大阪において書物に明確に記されるようになったのは、延宝7年3月(1679年)「懐中難波すずめ全」に唐木屋がはじめて現われている。
その後宝永元年4月(1704年)「摂津国大阪難波丸上之二」には唐木屋および指物屋が併記され、指物師が214軒におよんでいると記されている。その上、机、卓の名職方として四郎兵衛、杢左衛門の名が載せられている。

また、文政7年8月(1825年)「商人買物独案内」には唐木屋指物師とともに、唐木指物を着色する当時の唯一の染料「蘇芳(すおう)の販売店も記載されていることから、大阪の唐木指物技術技法は江戸時代に確立したと考えられる」と述べられているが、その後でも明治15年(1882年)の「日本商工案内」には当時の国税納付者(選挙のある者)が記入されているが、その中に唐木細工品卸、小売等の名前もでており、大正3年(1912年)の大阪大観にも唐木細工品商として幾多の名前が掲載されている。

大阪でこの唐木が定着したのは、江戸時代に入って幕府の政策として大阪を商業の中心にする方針が打ち出され、諸国の物産のほとんどが大阪に集められていた。
唐木材は当時すべて長崎に運びこまれていたが、大阪の薬種問屋がこの唐木材の販売を一手に引き受けていたためである。この頃、職方の制度も整い唐木の職人も次第に増え、大阪は唐木指物の歴史と伝統が確立するに及んだ。



指物とは
接合部分のところで指し口・指し合わせるということで指物と呼ばれています。
大阪唐木指物では、ホゾ穴を作り、留めを切り、ホゾを作り指し合わせます。
一説には、物差し(物指し)を使って作り上げるので、指物と言われた話もあります。